2006.  2.  5.の説教より

「 激しい叫びと涙 」
ヘブライ人への手紙 5章1−14節

 今日の聖書の箇所の中で、何と言いましても、わたしたちの関心を引く言葉と言えば、7節の「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」との言葉となるのではないかと思われます。何と言いましても、そこではイエス様が、「肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」られたことが語られているからです。イエス様が、「激しい叫び声をあげ、涙を流される」ということは、いったいどういうことでしょうか。神様の御子であるイエス様が「激しい叫び声をあげ、涙を流される」ということは、そうはないからです。唯一、思い起こすことができるとすれば、十字架を前にされたイエス様が、ゲッセマネの園において、汗を血のしたたりのように流されて、受けるべき杯を受けないで済むように、過ぎ去らせてくださるようにと祈られたことぐらいかもしれません。では、この「激しい叫び声をあげ、涙を流された」とは、イエス様がゲッセマネの園で祈られたときのことなのでしょうか。そうなのかもしれませんが、この5章は、大祭司としてのイエス様について語られているところですので、必ずしも、ゲッセマネの園でのことと考えなくても良いのかもしれません。むしろ、イエス様は、直接的には、聖書には出てこないかもしれませんが、人々のことを取り成すために、さらには、わたしたちを取り成してくださるために、日々、祈っておられたということではないでしょうか。また、そのようにイエス様が祈っていてくださったからこそ、「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」、「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」と語られているのではないでしょうか。そう考えた方が自然なのではないかと思われるのです。
 まさに、そのように、イエス様は、人々のことを、わたしたちのことをとりなしてくださる方だったからこそ、メルキゼデクと同じような祭司として語られることになっているものと考えられるわけです。このメルキゼデクという祭司ですが、旧約聖書の創世記14章18節などを見ますとき、「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。」というかたちで、ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトが、財産もろとも連れ去られたのを、アブラハムが助け出すことができたときに、アブラムを祝福した人物として、また、アブラハムが、「敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。」と言って、感謝の徴として「すべての物の十分の一を贈った」人物として出でくるのが、このメルキゼデクなわけです。「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」とあるところからしますと、詳細はわかりませんが、その当時においては、よく知られていた祭司であり、王である人物だったのかもしれません。それが、いつしか、祭司の理想のような存在として考えられるようになっていたのかもしれません。詩篇の110篇4節などを見ますと、このような言い方でメルキゼデクの名前が出てきます。「主は誓いを立てて、み心を変えられることはない、『あなたはメルキゼデクの位にしたがって/とこしえに祭司である』」。「メルキゼデクの位にしたがって/とこしえに祭司である」との言い方からしますと、メルキゼデクという人物は、まさに、祭司の中の祭司、特別な存在として考えられていたのかもしれません。そうした理想的な祭司としてのメルキゼデクのような祭司が、大祭司が、まさに、イエス様だというわけです。しかし、いくらメルキゼデクが理想的な祭司であったとしても、イエス様のことをメルキゼデクのような祭司だと言うことには、少々違和感を感ぜざるを得ませんが、おそらくは、メルキゼデクのような祭司だということによって、イエス様こそ、まさに、理想の祭司、これ以上のお方はいないとも言える祭司だということを語ろうとしているのかもしれません。実際、1節以下となりますが、大祭司と言われている者について言えることはと言えば、すべて人間の中から選ばれたものであるため、他の人の罪をとりなすために供え物やいけにえを献げのるだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いの供え物を献げなければならなかったのに対して、イエス様はメルキゼデクのような祭司であるため、その必要はなかったというわけです。しかも、イエス様は、8節・9節ですが、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となりました。」とありますように、イエス様の場合、罪のための供え物やいけにえを献げることによって、永遠の救いの源となられたというのではなくて、あくまでも、「御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれた」ことによって、永遠の救いの源となられた方なんだというわけです。神の御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを受けられることによってだというのです。そうだとしますと、イエス様が、そのご生涯の中で受けられたさまざまな御苦しみが、ご受難の一つひとつがまさにわたしたちのためだったんだということになるのです。ですから、まさに、わたしたちのために、イエス様は苦しんでくださったということになるわけです。また、そのようにしてイエス様がわたしたちのためにもたらしてくださった救いであるからこそ、それは永遠の救いの源となられたとありますように、わたしたちにとってそれはゆるぎないものとなるのではないでしょうか。しかも、イエス様は、このヘブライ人への手紙の中で繰り返し繰り返し語られていますように、わたしたちの弱さを思いやってくださるお方として、わたしたちのことをとりなしてくださるというわけです。そういうイエス様だからこそ、そういうイエス様がわたしたちに救いをもたらしてくださるからこそ、わたしたちは、どのような弱さを、それこそ、自分でも自分のことが嫌になるような側面をさらけ出すことがあったとしても、少しもゆるぐことなく救われたものとしてあることができるのではないでしょうか。また、そうでなければ、わたしたちは、どこまでも救われたものとしてあることなどできないのではないかと考えられるのです。また、それが、9節で、「そして、完全な者となられたので」とあるところのイエス様の「完全」ということではないかと考えられるわけです。ただ、どうしても、「完全」と言いますと、「完全無欠」という意味でも「完全」ということを考えてしまうということになるのではないかと思われるのですが、わたしなどは、「完全」というよりは「一途さ」という言葉に置き換えて、わたしたちのことをどこまでも追い求め、どのようなことをしてでも、それこそ、わたしたちがイエス様に背を向けてしまうことがあったとしても、わたしたちを救いの中に生きるようにされるイエス様のことを言い表している言葉として受け止めたほうが、その意味合いをより受け止めることができるのではないかと思われるわけです。
 そうしたイエス様によってもたらされた永遠の救いの中に、少しもゆるぐことのない救いの中に入れられていながら、そのことの意味を少しも受け止めてはいない者たちが多いというわけです。11節で、「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。」とあるのは、そのことを語っているものと考えられるわけです。ただ、その場合、イエス様によってゆるぐことのない永遠の救いがもたらされていることがわかっていないというよりは、わかっているとは思われないあり方をしている、生き方をしているということではないかと考えられるわけです。つまり、イエス様によって、そこまでしていただいて救われているのに、そのことがわかっているようなあり方をしていないのは、生き方をしていないのはどうしてなのか、ということではないかと考えられるのです。具体的には、イエス様がそこまでして救いの中に入れてくださっているのがわかっているならば、この自分と同じようにイエス様が救いの中に入れてくださっている方のことを、救いの中に入れようとしておられる人のことを、受け入れられないということがあるのだろうか、意見が合わないから、考えが違うからといって、一緒にやれなくなるようなことがあるのだろうか、ということではないかと考えられるのです。やはり、どんなに意見がちがったとしても、考え方が合わなかったとしても、早急に白黒をつけるのではなくて、白黒は神様がいつかはつけてくださることを信じて、意見が、考えが違う人のことを受け入れあって行くことができるところがあっても良いのではないかと思われるわけです。そうした意味では、自分の考えや意見に固執して、それに反する人たちを排除して行くところがあるとするならば、それこそわたしたちにとっては相応しくないことと言えるのではないかと考えられるのです。